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伝統スポーツと近代 A Consideration on the Japanese Traditional Sports in Modern Times 杉江 正敏(大阪大学) 【日本体育学会第56回大会体育史専門分科会シンポジウムより】 |
日本体育学会第56回大会において、体育史専門分科会シンポジウムが、「日本の伝統スポーツと近代」というテーマで開催されました(平成17年11月24日。於筑波大学大学会館)。このシンポジウムに、日本武道学会剣道専門分科会会長でもある杉江正敏氏(大阪大学)がコメンテーターとして参加し、「伝統スポーツと身体」と題して剣道の立場から発表されました。 当剣道専門分科会では、日本体育学会体育史専門分科会の了承を得て、杉江氏の発表抄録を以下に掲載させていただきます。なお、他の登壇者の発表部分や質疑応答等詳細については、日本体育学会体育史専門分科会『体育史研究』第23号(平成18年3月。133〜148頁)をご参照ください。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 伝統スポーツと近代 A Consideration on the Japanese Traditional Sports in Modern Times 杉江 正敏(大阪大学) ■剣道の立場から 1)剣道の国際化の現状と課題 柔道における国際化の問題をうけて、剣道の国際化の現状と課題から話を進めたい。昭和45年(1970)に17の国と地域の承認によって発足した国際剣道連盟(I.K.F.)は、現在、44の国と地域の参加を数えるに至った。 また、この年から3年ごとに開催されている世界剣道選手権大会は、2003年に、英国グラスゴーにおいて、エリザベス女王臨席のもと、第12回大会を開催した。そして、この大会まで日本は男女の個人戦および団体戦のすべてに優勝している。しかし、日本(130万人)に次ぐ剣道人口をもつ韓国(60万人)は、いつも日本とは大接戦を演じ、日本がいつ負けても不思議ではない競技力を有している。 このような実力を背景に韓国内の競技団体の一部には、オリンピックで優勝をねらえる種目として、また、古代における剣の伝播の経緯やナショナリズム的傾向から、剣道は韓国で発祥したものであるとして、独自の立場で世界化を図ろうとする動きがみられる。 一方、欧州諸国では剣道の国際競技的な側面についての関心はそれほど高くはなく、日本の伝統的な身体運動文化を学ぼうとする人びとが大半であると聞いている。しかし、クラブ組織の社会的承認や公共団体からの支援を受けるために、GAISF(General Association of International Sports Federations)への加盟を求めている。 剣道が国際的に承認される競技となることを希望するならば、克服されなければならない難問が、「有効打突 一本」の基準であろう。勝敗を決定するこの基準は、「充実した気勢」「適法な姿勢」「正確な打突」の三条件からなり、これらが満たされなければ「一本」とはならない。 まず、「充実した気勢」であるが、審判研修会などで「何故、今の打突を一本としないか」という問に対し、「気勢が不十分である」とする答えがかえってくることがしばしばである。この条件は定量化が難しく、審判者の瞬時の直観に頼らざるをえない。ただ、「不十分」であるとされた判定には、同意する研修者が多くいるという現実もある。 次に、近年とくに問題となっているのは、「正確な打突」の中で、「刃筋」の通らない「平打ち」の判定の難しさであろう。これは、ラケットなどの面の正確性に対比すべき条件ではあるが、不正確な面は飛び出したボールが教えてくれるが、交錯する両者の間で瞬時になされる「平打ち」は、竹刀の方向、手首の返り、体勢から、もしくは打撃音などによって判断することになる。 さらに、打突の機会や間合、残心(打突後の相手に対する備え)などを総合的判断し、審判者は旗をあげることになる。現在、全日本剣道連盟をはじめ、各種団体では、この審判研修会を頻繁に開催し、審判技術の統一と公正化に努めている。ただ、世界的な視野からみると日常的に充分な稽古量をこなし、審判研修会に参加し、各種の大会で審判としの経験を積んだ人の数は、日本と韓国を除いて多くはないといわれる。国際化のためには、参加する各国から等しく審判者を確保することが重要であり、これが課題となろう。 2)剣道と近代 ここでは、先にのべられた「柔道と近代」をうけて、嘉納治五郎の講道館柔道を典型として、武術の近代化の三つ指標を設け、剣道の近代化の過程を考えてみたい。 @安全性が考慮され、公正なルールのもとで競技ができる。 競技性 A近代教育としての目標と指導体系を持つ。 近代教育性 B流派を超えて統合された「型」と全国的組織をもつ。 流派性の解消 これを剣術に当てはめてみると、競技の基本体系は、ほぼ幕末期に北辰一刀流の千葉周作によって立てられ、明治28(1895)の大日本武徳会の創設により、全国的な規模の試合が行われるなかで整理された。教育理念の構築は、山岡鉄舟に影響を受けた人びとが中心となり、教材化の工夫は、剣術(撃剣)の体操化など、多くの人たちによって試行が繰り返され、それらが、大正4年(1915)に刊行された高野佐三郎著『剣道』に集大成された。「型」と組織は、武徳会が大正元年(1912)に制定した「大日本帝国剣道形」をもって、一応流派と組織の統合がなされたとみることができる。 以下、私のこれまでの研究との関連から、@とAに焦点をあわせ、さらに剣道の近代化の歩みについて概観したい。 @ 剣道の競技化の歩み 剣道の競技化を論ずるとき、しない・剣道具による稽古法が採用された江戸中期から幕末期を剣道の変質過程として検討せねばならない。当初は形稽古を補充するものとしてとらえられていたが、他流試合がそれによって可能になったことから、「撃剣」としての独自性をもつものとなる。この撃剣による勝敗の決定は、全体評価(姿勢・態度・技量など)による歩合(六−四、三−七など)から本数比較(多いものは十二本位の記録も残る)へと移行する。この間に、技術を曲芸的に使用する者や、相手の人格を無視し、勝敗に拘泥するような態度は、原則的には武士の真面目事としての武芸観からは否定された。 ここに見られる、剣道の技術を本数比較によらず、専門家集団を中心とする観客や審判者によって総合的に評価しようとする流れは、近代以降、高段者の演武会形式の試合、現在の昇段審査および試合審判規則の「判定」に名残りをとどめている。しかし、主流は決められた部位を「気体の一致」した見事な技で打突した本数で比較する競技方法であった。 このように、剣道の競技方法は幕末期における他流試合や御前試合(江戸における諸藩邸)の盛行する中で整理され、武徳会の主催する全国的規模の試合の振興にともない統一されてくる。 しかし、大正末期から昭和初期にかけて外来のスポーツが各種移入され、学生が主体となって盛大に対抗試合が開催されるようになってくると、日本古来の武道のルールが勝敗を明らかにしたり、試合者にとって互いに公平であるかなどの点が他のスポーツと比較され、その適正化への提言が、これらの大会に携わっている人々によってなされるようになってくる。 剣道界においては、武徳会の明治神宮大会不参加の表明にみられる、「武道は勝負を争うことを本旨としない」とする見解に対し、西洋のスポーツのルールを加味して勝敗を競うべきであるという意見が述べられ、また、審判の位置(一人制または二人制)によって判定に差の出ることから、三人制審判の導入が主張される。このような流れの中で、昭和4年(1929)の天覧試合は、トーナメント法(予選はリーグ戦)と三人制審判法(主審の権限が重く三審平等ではなかった)を採用することとなった。 昭和6年(1931)の満州事変以後の日本は、全体主義的国家主義の傾向を強め、スポ−ツ・武道いずれも国威発揚・国粋主義のるつぼの中へ巻き込まれていった。大正末期から昭和初期にかけてのこの時期は、短い期間ではあったが、学生を中心として剣道の競技化を一歩進めてスポーツ化の試みられた(勝敗の明確化・公正化)時期であり、戦後の再出発はこの時点に立ち返ることから始められたともいえよう。 A 剣道の教育化の歩み 明治維新による諸制度の改革と欧化思想のなかで、武術は衰退の一途をたどった。このような状況のなかで、新しい時代にいかに処するかをせまられていた剣術家に光明を与えたのが、山岡鉄舟の無刀流の理念であった。この無刀流の理念は、剣術は刀を操作する技術ではなく、修養のために行うものであるとして、多くの剣術家にむかえ入れられた。そして、明治後半期の剣術の教育論的展開には、鉄舟の春風館門下生のめざましい活動がみられる。 この教育論の主な論拠は、国民皆兵によって国民全てが武士となったのであるから、武士的徳操を養うためにも日本的な体育として、剣道(武道)を学校教育の正科として取り上げるべきであるとするものであり、文武兼修を理想とした武士への憧憬でもあった。しかし、大正期に入ると英米のデモクラシー教育論が翻訳され、スポーツ的ゲームによる社会性の訓練の必要性が強調され始める。 体育界では、これらの思潮の影響を受け、訓育は徳目の強制によらず運動を学習するなかで、そのスポーツ固有のルールを遵守しながらプレーすることにより、自然に教育されるべきである、という論議が展開される。剣道においても、武道と武士道の短絡的な結びつけが反省され、武士によって形成された競技道徳が、競技規則のなかに反映し存在するという意見が出され、徳目を教えるだけでなく、正々堂々の競技によってこそ、武士的人格が身に付くのであるとされた。 それと共に、民族主義を底流とする世界状勢のなかで、武道のもつ伝統的文化性と精神性が文部省に認知され始め、大正8年(1919)には、武術専門学校が武道専門学校に、15年(1926)の体操教授要目の改正で「撃剣・柔術」が「剣道・柔道」に名称変更されることになる。このように、武道は学校教育のなかでの地歩を徐々に固め始め、昭和6年(1931)の中学校令施行規則の改正により、武道(剣道・柔道)は正科必修となり、日本的な運動文化として教育のなかで次第に重視されるようになってくる。16年(1942)には、体錬科武道として体操と分離され、国民学校で実施される運びとなる。この体錬科武道は、終戦後の教育改革のなかで、軍国主義教育に加担したとして、その授業が中止されることになった。 ■コメンテーターとしての立場から 小笠原流騎射術、剣道、そして柔道、それぞれの武術の成立した歴史的・時代的背景から、その文化性について概観し、近代にどのようにして、伝統性を保持または、再創造しながら、今に伝えられたのかについてコメントし、責めを免れたい。 古来より、戦闘を前提としての武技は存在したが、その教習体系をととのえ、流派として成立してくるのは、室町中期から江戸初期にかけてである。まず、騎射の小笠原流と馬術の大坪流が、14 世紀末、室町幕府の武家式法や年中行事の確立過程のなかで流派として成立したとされている。 剣術や柔術は、応仁の乱に始まる戦国時代から、その末期にかけて流派を形成してくる。特に天文12年(1543)に伝来した鉄砲の急速な普及によって、重装の騎馬隊を足軽の鉄砲隊が容易に打ち破るという現実に対処し、装備は軽量化され、機動性のある戦法が考えられるようになった。それに伴って武技も筋力や体力に依存する技法から、精妙さや機敏さを養うものへと変化してくる。 小笠原流騎射術が、武家式法や年中行事といった儀式的内容を多分にもって成立した事情と、中世における「道」の思想(専門性、家職、道統)を色濃く内包して伝承されてきたことが、現在の同流からもうかがえる。このことは、江戸幕府が、鎌倉、室町と継承された武家式法を尊重し、復興に努めることにより、徳川政権の正当性を保持しようとしたことにも関連すると考えられる。この流派存続の意義は、武術流派として最も成立が早く、その道統と格式が家職として相伝されてきたことに求められよう。 近代は、欧米化、合理化の時代とも称されるが、その反動として、明治20年代にみられるような国粋保存が主張され、江戸趣味がもてはやされるような時代とが、ないまぜになって進んでゆく。その代表誌である『風俗画報』には、多くの騎射術の紹介をみることができる。このことから、騎射術に対する支援者の広がりが想起される。 剣術は、前述のように現在の竹刀・剣道具による稽古法や競技方法が、江戸中期から幕末にかけて形成され、それまでの儒仏思想に加え、気体の一致、練気養心(神)などの老壮思想を取り込んだ。幕末期には他流試合が盛んにおこなわれ、農民層を含む人びとに受容され、多くの名人達人を輩出した。このことから、現在の剣道は、近代に競技法や教育法に幾分かの改訂がおこなわれてはいるが、近世的基盤の上に成立した文化といえる。 柔術は、村田氏が述べられたように、嘉納治五郎の出現により、体育・勝負・修心の明確な目標を持って、近代に適応できる形態を講道館柔道としてととのえる。嘉納の柔術の修行は、いったん武術が社会的存在価値を失って以後の明治10年(1877)に始められた。当時の柔術界は、衰退を極め、彼の言によれば、「…ふと整骨をする人が、昔の柔術家の名残なのだと聞き込んだから、整骨の看板のある処には、あちらにもこちらにも這入ってみて柔術をするか否かきいて見た…」(『嘉納治五郎私の生涯と柔道』)というように、柔術を指導してくれる人も場所もほとんどないような状況であった。 初期には強くなりたいという初歩的な動機であったが、漸次、青少年教育の一つとして意識され始め、明治22年(1889)、大日本教育会の依頼により『柔道一班並ニ其教育上ノ価値』を発表する頃には、完全に近代に適応できる段階に達していた。明治10年に東京大学に入学した嘉納においては、柔術の修行の進行と並行的・同時的に西欧の合理主義がとり入れられ、このことが近代化をなしとげるのに有効に働いたと考えられる。 このことから、講道館柔道は、「和魂洋才」の心をもって、科学的合理主義がとりいれられた近代的基盤の上に構築された文化といえよう。 最後に、この近代初頭(明治維新から西南戦争頃まで)、旧時代の遺物とまでいわれ本当に苦しい時代に、これらの武術はどのように生きのびたのであろうか? 柔術は嘉納の言にもある「整骨」がヒントとなろう。剣術は「撃剣興行」がよく知られるところであるが、これは、幕末期に多くのスター性をもった剣術家が輩出し、高度に洗練された技術を有していたという裏付けがあった。小笠原騎射術では、武家に伝承された最高の格式をもった武術であるという看板とともに「礼法」という看板であろう。これを表看板とするな、という家訓が演者によって紹介されたことからも、苦しい時代を物語ると思われる。いづれにしても、この冬の時代を乗り越えたことにより、今に伝承されたことを考えると、これら先人に対して敬意と感謝の念を禁じえない。 (了) |