■大会準備・実行委員として世界大会に関わったのは3度目、毎回アクシデントやハプニングは必ずあるものの、選手の健闘を得て感動のうちに、今大会も何とか終えることができたかと思う。栄花選手をはじめとする活躍で日本は個人・団体戦とも優勝し、試合結果として剣道宗主国の面目を保ったことは既に剣道関連誌が詳報しているので、試合についてここでは特筆しない。ただ結果がよいとつい反省を忘れるのが人の常、この機に、見過ごしたくない点について押さえておきたいと思う。
■いきなり話が飛ぶが、アメリカ・サンタクララでの前回世界大会で帰国便機中、偶然隣り合わせになったコーチの宮崎正裕氏に尋ねたことがある。「海外でのコンディショニングに関して気を遣うのは時差調整ですか。食事ですか。言葉ですか。」
■この三点は、海外で頻繁に試合のあるスポーツ選手が指摘する最も日常的な問題である。プロ選手ではコンディショニングのための専属スタッフを雇う例や、またコミュニケーションの問題が精神的な負担とならぬよう、選手本人が各国選手とジョークも交わせるほどに英語を身に付ける努力をすることも今では珍しくない。
■ 宮崎氏はこの質問に、「早くに現地入りし稽古で調整することで時差ボケは十分解消できる。食事も現地日系の方がおにぎり等を差し入れてくれたし、言葉の問題もスタッフ諸氏が間に入ってくれて不自由はなかった。剣道を通じて海外に行ける感謝の思いが、それらの問題解決を補って余りあると思う」と語った。この答えは、現在の剣道を取り巻く国際的状況を物語る意味でとても示唆に富む。つまり「競技スポーツ」の視点だけで見れば、やはり日本選手が突出して恵まれた環境にあるのが剣道である、言い換えれば、剣道はまだ国際的に「揉まれていない」ということになる。
■ かつて「日本のお家芸」などと言われたスポーツも今や厳しい国際競争にさらされている。剣道をスポーツの論理でのみ捉えようとするのは必ずしも本意ではないが、勝敗を決する競技を実施する側面からは、剣道でもスポーツの論理や科学を援用することを頭から忌み嫌うことはできない。剣道にも国際的な競技の「土俵」が存在する以上、これまでの恵まれた環境に安住して厳しい環境に適応する努力を怠れば、いずれは競技の上では「王座」を追われることになろう。それだけならまだしも(いや、日本以外の選手が王座につきうるなら、単に「競技スポーツ」としてはむしろ健全でもある)、王座を追われることで、日本文化の中で育まれてきた剣道がその本質的文化価値にまで変容を迫られることになれば、剣道はいずれ武道としての存在意義も問われかねないと、識者からは危惧されている。つまり、剣道が日本の文化性を伴わない「無国籍中立」な「競技スポーツ」の一つとして国際的に一人歩きを始めるだろう、という心配である。何やら国際柔道の歩みを彷彿とさせる、と言ったら柔道に失礼であろうか。
■今回、本会の齋藤実氏が、健康、心理、栄養、情報面のコンディショニング担当専属トレーニングコーチとして選手団に付いたが、これは剣道界のナショナルチームレベルでは初めての取り組みであった。
一般には知られていないが、幸いロンドン在勤の日本人の協力が得られ炊飯釜と日本米の調達が可能となったこともあり、齋藤氏は独自の判断で大会現地でご飯の炊き出しを敢行、これは大会期間中、食の面から選手団の体調を支えた。女子選手が食事の際お釜をホテルレストランに持ち込もうとしてウェイターに窘められたというエピソードまである。
海外での「言葉」の問題は選手にとって直接的ではないが、必要なコミュニケーションが円滑にできない環境に適応する能力(周囲に誰も通訳がいないところに置かれても自身で必要な調整ができるか)を、今後は剣道選手も身に付けていかなくてはならないことを示唆している。そのために剣道選手も、今後は国際的なステージを経験する機会を多く持つべきである。
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